2012年01月19日
脱いだ靴・・・・!

昔、ホンダの営業マンの頃、かねてから気になっていたことがある。
それは、玄関の靴だ。
飛込み営業と違って、ホンダの営業マンだと言えば家にあげてくれることが多かった。
玄関の靴がちゃんと並んでいる家は、家族の人も礼儀正しく、成約する確率も高かった。
しかし、そうでない家は、成約率も低い上に、成約できたとしてもローンが通らなかったりしたことが多かったように思う。
昔、「却下照顧(きゃっかしょうこ)」ということを教わった。
人生を歩いていく上で大切なことは、一方的な拡大戦略を目指すのでなく、「自分の足元を常によく見て人生を生きていけ」ということ。
自分の足元すら見えていない人は、自分自身の足元(環境)が見えていない。にもかかわらず、一角千金を狙って泥沼に嵌っていく。
経済至上主義がまかり通っている現在では、耳の痛い話である。
結局、自分が置かれている社会環境や経営環境が見えていないということは、個人や会社の運命も見えていないということにつながるのだろう。
家に帰ったら、玄関で脱いだ靴をそろえる。食事に居酒屋の座敷に上がる場合も同じようにそろえる。訪問先でも同じように靴をすっとそろえる。
たったこれだけのことであれば、その動作に数秒もかからない。
でも、このような習慣を日々続けていれば、不思議なことに生活だけでなく人生など、全てがスッキリしてくるから不思議である。
それは、生き方全てが美しくなるということであり、結局、「潔い人生」とはそんな些細なことなのかもしれない。
人間や人生とはそんなもの。
今から帰宅して家族のそろっていない靴をそろえることにするか・・・(泣)。
ただ、思うのは、ささいな「靴をそろえる」ということが次の一歩につながるということ。
朝、玄関を前進で出発するか、一回振り返ってから出発するかは、限りのある人生全般において、時間的にもたいへん重要なことだと思う。
(ますます、おじいさんのようになっていく自分が怖い)
とにかく、今までどおり「脱いだ靴をそろえる」ことだけは、生き方を美しくするためにも継続したいと思う。
(なんだこれ、トイレの神様のような内容になってしまった{恥))
2012年01月09日
「時間」を作る方法!?

創造的な仕事をするためには、とにかく時間が必要になる。
私は、そのような仕事をする時には、朝4時から、まるで夢遊病患者のように仕事を始める。
また、何か、他のために当てていた時間を犠牲にすることもある。
しかし、「時間」とは、多くあるからといっても多く活用できるとは限らない。
その理由は、「時間」とは「自分の精神」にかかわるものだからである。
つまり、自分自身の精神のあり方によって、時間は長く豊かにも、浅く短くにもなるということだろう。
では、「時間」を長く豊かにするためにはどうすればよいのだろう?
その方法とは、「騒音」と「雑音」の排除が一番有効なように感じる。
特に次のような場合は顕著になる。
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新聞や雑誌を読まない!
FacebookやTwitterなどのコミュニケーションツールの成長期において、ある意味上記のようなことを実践すると「遅れてる」という誹りを受けるかもしれない。
しかし、とにかく心を乱したり、気持ちに触れてくるものを一切排除することによって、時間はたっぷりと深いものになる。
実際、テレビを見ている1時間と創造的なことをしている1時間は、2倍は違うと感じる。1時間たったかなと思って時計を覗くと、まだ30分しか経ってないのに驚く。
また、毎朝、読んでいる新聞も問題だ。
新聞とは世間の騒音などが凝縮されているものであり、朝の貴重な時間をそのような騒音で心を動かされたくない。朝刊で重要なのは、死亡覧だけだとさえ感じる。
周囲が静かになれば、心はずっと深くなる。
つまらない事で腹を立てたりイラついたりしていれば、それだけで半日や1日は潰れてしまう。
人間、80歳まで生きたとしても、一生は3万日に届かない(29,200日)。
私は今年50歳だから、30年生きても10,950日。20年であればなんと7,300日しか残されていない。
だから1日1日を大切に過ごしたい。
心を静かにして時間を深くするためには、「禅の心」は大切だ。
そして、自分自身がすべきことを考え、その達成のために心を静かにして創造的に過ごす。
決して、騒音や雑音に心を乱されることなく、一日一日を積み重ねていく。どうも、それが究極の「時間」を作る方法なのかもしれない。
2012年01月01日
'12年は「空の心」で。よろしくお願い致します!

あけましておめでとうございます!
今年も「木内淑規(きのうちとしのり)の大家塾」では、あなたに向けて価値ある「知識」や「ノウハウ」を発信し続けていきたいと思います!
今年は辰年。伝説の生き物「龍」の1年です。
私の今年のテーマは、「こだわらず、囚われず、偏らず」。
すなわち「空の心」です。
ここ数年は混迷が続くことが予想される日本社会。
ますます、つかみどころがなく、形も不透明。
私たちは、将来に向けて、ますます全体像を正しく掴むことが難しくなるでしょう・・・。
「空の心」とはすなわち「禅」。
まずは「空の心」になって、動揺せず、手順どおりただ進めていく。
大切な原理原則に基づいて、淡々と進めていく。
その結果、これから将来に向けての全体像を煮詰めていく。
そんな風に計画しています。
それでは、今年もよろしくお願いします。
2011年12月18日
「仏像」をボーっと眺める日!

仏像には4種類ある。
それは、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」の4種類だ。
だから仏像の名前には、この4つが名前の後ろに必ず付く。
この4種類の区分は「悟り」を開いているかどうかだと言われている。
「悟り」を開き、最も偉いのは「如来」であり、「釈迦如来」や「薬師如来」、「大日如来」、「阿弥陀如来」などである。
次の「菩薩」とは、悟りに向けて修行中の者のことをいい、「観世音菩薩」や「文殊菩薩」、「地蔵菩薩」などがある。
続いて偉いのは「明王」である。「明王」と聞いて、まっ先に思い出すのは、あの怖い顔で炎の前に立っている「不動明王」である。
「明王」は「如来の化身」とも言われ、人の心の迷いを断って教えたり諭したりする役割を持っているらしい。あの表情とは裏腹に、本当は非常に優しいらしい。
そして、最後は「天」である。「天」で代表的なのは、「大黒天」や「弁財天」、「毘沙門天」だ。
これは、もともと仏教の聖地に数多くいた神様を、仏教なりに地位を与えたという解釈らしい。
戦国時代の名将「上杉謙信」は、「毘沙門天」の化身として自らの戦旗に「毘」の一文字を記して戦った。長年の敵である武田信玄に塩を送ったことで有名な上杉謙信は、「しょせん、戦いは戦い。しかし、人の窮地を救うことが最も大切」だと思ったようだ。
殺伐としたビジネスの世界。たまには仏像を眺めながら、そんなことを考えてみる。
「しょせん、ビジネスはビジネス」だと・・・!
それよりも、人としてもっと大切なことや重要なこと、それを人生を生きていくうえでのテーマにしなくては・・。
2011年12月12日
「ヤル気だけでは・・・?」

今から思い返すこと30年前、私は、「人生、ヤル気だけあれば成功できる!」と思い込んでいた節がある。
しかし、来年、50歳を迎えるにあたり、「人生、ヤル気だけではどうにもならなかった!」と、強烈に感じられずにはいられない。
それは、人生、自らが選んだ業界によって、楽して儲かるか?、また、人生を追うか出来るかに、大きな差があると思うからだ。
日本社会はこれから少子高齢化が顕著になり、また、市場というパイが、全体的に大幅にしぼんでいく。
商売の基本は数量×単価。経済の基本である数量が急速にしぼむということは、ライバルとのパイの取り合いになり過当競争が激化していくということ。
ということは、競争激化になり単価は下落していく。
ましてや、そのように状況にもかかわらず、毎日毎日、新規顧客を見つけ続けなければならないビジネスモデルは、いずれ終焉を迎えるのは明らかである。
これからは継続フィーをあげられるビジネスかが安定した収益を上げることができるだろう。
いくらヤル気があっても、狩猟型ビジネスモデルは限界を迎える。
そのような中、いかに人のお役に立てるか?、また、役に立てるサービスをお届けするかに、起業の存亡がかかっていると思ってよい。
では、これから人の役に立てるようになるにはどうすればよいのか・・・?
それは、人と一緒になって悩むこと。また、相談される人のために、自らの知識やノウハウを磨き、蓄積し、その人のウェルライフのために最善を尽くすこと。
そして、それらのノウハウを決して出し惜しみしないこと。
それがいずれ人の和を呼び、大きなグループとなり、お互いの切磋琢磨の末、関係する人々の幸せにつながる。
50歳目前にしてつくづく思う。
本人のヤル気だけにはどうにもならない人生のもどかしさ・・・。
いかに人のために人生を送るか?
回り道のようで、結局は一番の近道かもしれない。
2011年12月09日
「たらい水」と「私たち家族を殴った人たち」・・・!

以前、あのカリスマオバちゃん大家さん「鈴木ゆり子さん」の話を、今朝、早く起きたときに思い出した。
「木内さん、いっぱい水の入ったたらいの水を、欲張りの人は自分の方へ来いと自分に向けて両手でかき寄せる。そうすると、かき込んだ水はみんな脇から逃げていくよ。その一方で、向うに行けと押し出すと、回りまわって脇から自分のふところに入ってくるよ!」
確かにそのとおりなのかもしれない。
経済至上主義がまかりとおる日本では、自分に水をかき寄せる人ばかり。
相続コンサルティングの現場では、特にひどいような気がする。
「相続財産ももらわない方が幸せ」なのかもしれない」とつくづく感じる場合がある。
どうして人は、表面上はニコニコしながらも、実は欲張りなのだろうか・・?
ちょうど今から12年前。
私たちの家族にとって、人生最悪とも呼べる日があった。
1ヶ月間はなにをするにもヤル気が出ず、失意のどん底だったことを、12年経っても覚えている。
そんな時、やっと気を取り直してがんばり始めた頃、さまざまなイヤがらせや報復を受けた。まさに泣きっ面にハチといったところだ。
その時、私達家族にひどい仕打ちをした人の顔は今でも覚えているし、これからも決して忘れないだろう。
しかし、そんなことは「殴った人」は覚えていない。
でも、「殴られた」方はいつまでも覚えている。
別に、私は、その人たちにに報復しようなどとは思わないし、万一、現在の私に擦り寄ってきても笑顔で接する。
ましてや、その時の仕返しや報復をしようとは思わない。
その理由は、その報復の報復は、いずれまた私の元へ来るように思うからだ。
また、私が死んだ後で、その報復が子供達に向かうのであれば、親父として面目もないように思う。
誰かが我慢して、その負の連鎖を切らない限り、将来、子々孫々まで延々と続くことになるだろう。
昔から、「嫉妬の感情の方が、愛情の感情より強いパワーがある」といわれている。
本来であれば、不必要な嫉妬や妬みはかわない方が得である。
その理由は、上記のパワーの強さもさることながら「出る杭は打たれる!」とか「わざと足を引っ張る!」ようなことが、日本全体のみならず地方に行けば行くほど、まるで背後霊のようにつきまとうからだ。
ひょっとすれば江戸時代の5人組制度が抜けきらないのかもしれない。
その点、スポーツの世界はすがすがしい。
実力のある人間であれば、いくらやっかむ人がいた所で関係ない。
しょせんスポーツというが、それでも勝っても負けても全力で戦ったのであれば、勝敗が決した後、どちらもすがすがしい気持ちになれる。
ただし、「棚からぼた餅」ばかりを期待する人たちから、いらぬ嫉妬だけはもらいたくないものだ。
「お前、うまいことやったなぁ〜」と言われることがある。表面上は、「そうなんですよ!」と笑顔で応える。
ここ数年は続く混乱期。
世界で最も成功した「社会主義的な資本主義」と揶揄される日本社会自体が試される時代なのかもしれない。
「緊急避難の法則」は性格的にはやりきれないが、努力しない企業や時代に対応できない企業や人は、篩(ふるい)のメにひっかかって退場しなければならない時代がここ数年は続くだろう。
まさしく、「横断歩道、みんなで渡ればコワくない!」から、「横断歩道、みんなで渡れば轢かれちゃうよ!」状態。
マスコミや週刊誌、政界は、人の失敗ばかりを糾弾し、その糾弾を恐れる人たちは保身に走るので進歩はない。
今、待たれているのは、「将来に禍根を残さない時代の責任」を感じている人たちが行う(幕末の志士たちのような)、激変なのかもしれない。
「ウォーリーを探せのような間違い探しに明け暮れるマスコミや政治家」には、何も期待できない。
そんな事はイザ知らず、私は今後も「たらい水」と「殴った人」を心に刻み、生き続けていかなければいけない。
2011年12月08日
▼「頭が固い人」にならないように・・・!

「あの人はどうも"頭が固い"!」とよく言います。
「頭が固い人」には次の二つの種類があるように思います。
ヽ惺擦能ったことが考え方の基本になっている人
◆\ご屬任侶亳海考え方の基本になっている人
,痢岾惺擦能ったこと」とは、数学以外のほとんどが「常識的な一般教養」です。カンタンに言うと、「現在のところ最も妥当な考え方」だといえるでしょう。すなわち、ほとんどが仮説を習っているに過ぎません。
一方、「世間での経験」を持っている人はたくさんいます。
「このような場合はこうだ!」という経験則に従って物事を判断する方法です。
ですから、その判断のほとんどは、特定の業界や人の集まりの中でのことになります。すなわち、一種の「ムラ」という集まりの中でのみ通用します。
以前、ある地方銀行の支店長が私に話してくれた言葉が印象的でした。
「あの社長、業界では良い評判らしいけど、経営のことはチンプンカンプン。よくあれで30年も経営してこれたものだ!」
確かに、その経営者は業界では実直であり、悪い噂もありませんでした。しかし、あまりにも「ムラの常識と経験」のせいなのか、時代の変革に取り残されているようでした。
すなわち、「頭が固い人」の△世辰燭錣韻任后
一方、「頭が固い人」の.織ぅ廚凌佑眤臉います。
そのような人たちは、自らの保身が最重要課題な人が多く、「責任逃れ」が最も得意ワザです。
では、私たちは、このような両極端な頭の固さを克服するためには、どのようにすればよいのでしょうか?
実は、それを克服するもっとも手っ取り早い方法は、さまざまなジャンルの本を読むことです。
その理由は、本を読むということは、著者の意見や考え方を学ぶことであり、人の顔が違うように著者によって考え方も意見も違うからです。
これを継続して繰り返していれば考え方も広がりますし、さまざまな意見や考え方に触れることで、自分自身が成長していくことになるでしょう。
くれぐれも「頭の固い人」にならないように・・・!
2011年12月05日
「一方が死んでしまってからの夫婦関係」

昨夜、故人 伊丹十三氏監督デビュー作「お葬式」が放映されていた。
自身、この映画を見るのは確か3回目である。
一見、タブーとも言える題材を取上げた映画であるが、視る時の自分の年齢によって注目することが違う。
今回は、最後に主人公たちがゴミを黙々と燃やすシーンが印象的だった。「人を燃やす(火葬)」のと「ゴミを燃やす」。同じ燃やすという行為であっても、それまでの人を絡めた手続きがこれほどにも違うということを表現したのであろう。
また、この「お葬式」というイベントに加味されている性描写や夫婦の絆なども感慨深い。
「お互いが生きている間の夫婦関係」と「一方が死んでしまってからの夫婦関係」を語った、最後の菅井きんの言葉が印象的。
よく、死に残るのは女性の方が良いと言われている。確かに、男性が死に残った場合は惨めだ。
私の住む地域には、一人暮らしのおばあちゃんが沢山いる。そのおばあちゃん達の多くは、住むところはあるものの年金だけでほそぼそと生活しているようだ。
しかし、女性はある意味でたくましい。
昨日、家内が不在だったので、洗濯やアイロン、子供の食事の用意をしてみたが、どうも母性本能や見返りを求めない愛とは無関係らしく、その大変さが身にしみた。
とても家内のようにはいかないとつくづく感じた。
まして、自分だけが生き残った場合、食事や家事も含めて惨めな生活になるのは十分想像できる。
仕事ができるうちはまだ生活に張りもありなんとかなるだろうが、それもリタイヤした場合、ナニを寄り拠に生きていけばよいのか・・?
心配極まりない・・・。
伊丹十三監督は、それまでタブーとされてきた宗教団体や反暴力団体、税務当局と脱税などのテーマを取上げている。
自殺とされているその不可解な死に方は、「自らの不倫報道に対する反抗」とか「宗教団体に殺された」、「暴力団の報復」などが噂されている。
もし、仮にこの監督が生きていたら、今の日本で、どのような映画を作っていたのかと思わず連想してしまう。
今度は機会を設けて愛媛県松山市にある「伊丹十三記念館」に、是非、夫婦で行ってみたい。
2011年12月04日
「冬」とは全ての始まり。

「冬」とは全ての始まり。
発想、試行錯誤、低収益、定着。
小さな失敗をドンドンする種まきの季節。
願望や目的を明確化する季節。
「冬」は季節の終わり。
今までの事業が老化して死に向かう季節。
と同時に、「冬」は誕生の季節であり、すべてのはじまり。
(出典:「なぜ春はこない?」神田昌典 著、來夢 監修)
この12年間、私の人生もぴたりと当てはまりました。
2011年12月03日
「瞑想(めいそう)」

ここ数週間、休日返上で働いているせいか、心が揺れているような気がする。
また、田舎の徳島暮らしが長いせいか、度重なる県外出張では公共交通機関の時間の短さに、いつもソワソワしている。
やはり人間は、何もせず、じっとしていて、揺れている心を澄み切った心にする時間を持ったほうが良い。
昔の武士は「禅」で心の平静を保とうとしたのもうなづける。
「いつ命を落すかもしれない!」というある意味、修羅場の状況で、心を安定させるために最も効果的だったのだろう。
できれば現代人も、朝夕に、短い時間だけでもそのような時間を持ちたいものだ。
たとえ短い時間でも、繰り返しそのような時間を持つと、その度に心はリセットされ、洞察力が蘇える。そして、心の安定が生まれる。
これは、パソコンでいうとシステムメニューのスキャンとでフラグ。いつのまにか情報が氾濫し、動作が遅くなってしまっても修正される。
パソコンは「電脳」と言われるように「脳」である。もっと複雑で怪奇な人間の脳に必要ないはずはない。
これを毎日、朝夕、続けていると、なかなか動揺しなくなる自分が出来上がる。
飲酒が過ぎれば心はなかなか定まらない。反省。












